中高野街道は、大阪方面から霊場高野山(和歌山県)へ向かう古道の一つです。江戸時代以後、頻繁に利用されました。大阪市平野を起点として、大和川にかかる高野大橋の東から松原市域に入り、三宅・阿保・上田・新堂・岡・丹南を南北に貫きます。長尾街道と交差する阿保茶屋から、河内松原駅を経て、竹内街道に至る現在のバス道は、大正10年代につくられた新道です。もともとの古道は、河内松原駅の西から、松原幼稚園や松原小学校前を経て、新堂に入り、岡町交番の前を通って岡の松原南図書館の前で竹内街道と交差し丹南へ向かっています。
6つの商店会(松原阿保商店会、松原駅前商店会、松原中央商店会、上田元町商店会、新堂・栄町商店会、松原岡商店会)は、中高野街道と共に歩んできました。
1、屯倉神社
平安時代中期の天慶5年(942年)の創建という。菅原道真などを祭神とする。道真が九州の大宰府へ赴く際に立ち寄り、腰を掛けたという神形石がある。屯倉は「ミヤケ」と読み、ヤマト王権の直轄地であったことから名づけられた。境内は梅が有名で、毎年多くの参拝者で賑わう。開運松原六社参りの一つ。
2、一里塚跡
三宅と阿保との境界付近にあたる。摂津の平野から一里(約4㎞)の場所。旅人などの目印や休息のために、松などを街道の両側に植えた。今はその痕跡はないが、一里山の小字名を残し、江戸時代の絵図には小山が描かれている。写真は北から南をのぞむ。
3、保田佐久三像
明治~昭和前半の政治家。阿保出身で、松原村村長などを経て、中河内郡選出の大阪府議会副議長として活躍した。台石に立つ佐久三像は、大正12年(1923年)、のちの内閣総理大臣加藤高明や大阪の泊園書院院主の藤澤黄鵠が撰文や書を記し、建てられた。
4、阿保神社
平安前期、平城天皇の第一皇子の阿保親王(六歌仙の一人・在原業平の父)が、当地に住んだので阿保の地名がある。神社は菅原道真を祀る。のちに阿保親王社も祀られ、本殿横にみられるクスの大木は阿保親王お手植えと伝えられ、樹齢1100年という。開運松原六社参りの一つ。
5、海泉池満水石
池の一部は道夢館や阿保公民館として埋め立てられている。阿保親王が掘った灌漑池の一つと伝えられ、親王池ともいう。北堤の公民館前に、海泉池の堰高を決める満水石が残されている。文化5年(1808年)6月に西阿保村と三宅村が立ち会い、堰高7寸5分と決めた。
6、地蔵堂前道標
中高野街道から海泉池や阿保神社を経て、別所方面に分かれる地蔵堂前に建つ。地蔵は戦後、大阪から移されたもの。角柱型の道標は明治15年(1882年)9月に建立された。「右 八尾 信貴山」「左 平野 大阪」とある。
7、阿保茶屋跡
中高野街道と長尾街道の交差する所は、江戸時代以降、旅人めあての多くの茶屋があったといわれている。江戸時代の史料に阿保茶屋村とよばれていたこともあった。明治39年(1906年)5月建立の松原村出兵軍人の「日露戦役記念碑」や昭和3年(1928年)10月の「御大典記念」「松原村分会」記念碑も建てられている。
8、中門の分量石
長尾街道の小字中門に、南から流れてきた今井戸川がぶつかり、東の阿保村の海泉池や三宅村の大海池に分かれる流路と、西の松原村上田へ向かう本流の所に堰高を定める分量石がある。同地は、ポケットパークになっている。享和元年(1801年)7月、上田と三宅村の立会いで決められた。堰高は上端まで5尺とある。
9、ちちかみ橋跡と「長尾街道」道標
松原郵便局前に明治43年(1910年)2月に大阪府の建てた角柱型道標が見られる。「ちゝかみはし」「長尾街道」と刻まれている。北へ松原警察署横を流れる今井戸川が長尾街道と交わる所に「ちちかみ橋」が架かっていた。いい伝えでは、平安朝、貴族の女房が抱いていた赤ん坊がむずかり、乳房を噛み「ちちかみ」とよんだ悲しい話が残っている。
10、柴籬神社
5世紀後半、仁賢天皇の勅命で創建されたと伝えられる。社地は反正天皇の丹比柴籬宮の伝承地とされ、反正天皇などを祭神とする。平安前期の貞観6年(864年)に清和天皇から宝幣を賜る。室町前期の観応3年(1352年)には北朝の足利直義が参詣している。江戸前期には井原西鶴も訪れ、柴籬宮の歌を詠んでいる。開運松原六社参りの一つ。
11、中高野街道・住吉道道標
中高野街道と住吉道(斜向道)の分岐点にある尖頭角柱型道標。天保5年(1834年)に建立された。「左 さかい 住よし道」「右 平野 大坂道」「すく かうや よしの道」とある。「釋善心」が建てた。「すく」とは、真っすぐの意味。
12、十二社権現社
室町後期の永禄年間(1558~1569年)、僧秀盛によって創建されたいう。もとは新堂3丁目の良念寺(真宗大谷派)前の東之坊(.真言宗・廃寺)の境内に祀られていた。のち中高野街道と住吉道の交差する地に移り、今は栄町公民館前広場に移っている。熊野信仰のイザナギ・イザナミなどを祀り、熊野詣や高野詣の旅人の安全を祈った。
13、王仁の聖堂址
松原6中前の宮ノ池に岬状の社地があり、弁財天を祀る。4世紀末の応神天皇の時に百済(現朝鮮半島南部)から、わが国に論語を伝えた渡来人の王仁が当地に孔子を祀る聖堂を建てたという。江戸中期「河内志」に記されてから、わが国学問発祥の地として広まった。宮ノ池に接して聖堂池があり、聖堂川も流れる。
14、正井殿
岡地区の氏神で、素盞鳴命を祀る。延宝7年(1679年)に発刊さた『河内鑑名所記』に神木の「連理の松」が境内にあると記されている。江戸前期、名木として有名であった。一時、本殿が竹内街道沿いに移ったことから、正井殿常夜燈の一部が岡の円正寺(真宗大谷派)に残る。
15、竹内街道・中高野街道茶屋筋道標
竹内街道と中高野街道との交差点(現松原南図書館前)の松原茶屋に建つ。もとは南西角にあり、その位置には記念石が建てられている。寛政9年(1797年)5月に「いせこう」(伊勢講)が建てた。「右 ひらの 大坂道」「左 さやま 三日市 かうや道」「左 さかい道」とある。
16、大師堂
明治時代後半、高野山・弘法大師信仰に基づき、岡の大師講(観音講)の人々が高野山大圓院で得度した神田覚栄師を招いて建てた。弘法大師像・不動明王像・千手観音像などが堂内に祀られる。今も大圓院出身の地蔵寺(橋本市)の僧侶がこられ、毎年4月21日に護摩がたかれる。春になると境内の八重桜が見事である。
17、竹内街道・中高野街道分岐道標
竹内街道と重なるもともとの中高野街道が丹南へ向かう分岐に建つ。⑮茶屋筋道標と同じく、寛政9年5月に「いせこう」が建てた。「左 ふちゐ寺 上太子 やまと道」「右 さやま(三日市) かうや」「左 ひらの 大坂道」とある。
18、緑の一里塚碑
7世紀につくられたと考えられる竹内街道は平成25年(2013年)に1400年を迎えた。その記念として、大阪府が府内第1号として市営柏木住宅前にモニュメントを作った。縄文~近世に至る立部遺跡の一角に建てられ、ここからは河内鋳物師の遺構や鋳物(平安末〜鎌倉後半)も検出されている。
19、来迎寺
融通念仏宗。奈良時代に行基が創建したという。鎌倉時代に法明上人が中興。江戸初期の元和9年(1623年)には徳川家康に従った高木氏が隣地に丹南藩1万石の陣屋をおき、当寺を菩提寺とした。墓地に初代高木政次、11代高木正明の五輪塔が祀られている。境内のいぶきの木は府指定の天然記念物。
20、丹南天満宮
安土桃山時代の流れをくむ一間社流造りの本殿は市内でも最古級である。徳川・豊臣方が戦った大阪夏の陣(1615年)で焼かれたが、まもなく再建された。菅原道真などを祭神とする。丹南藩陣屋や来迎寺に接し、丹南藩主高木氏も信仰したという。
監修:西田孝司(松原市文化財保護審議会)